雨の月曜日は急がない
サタデーナイト
週末の夜。
街のあちこちから、笑い声や重低音の強めな音楽が聴こえてくる。
一人でいると、少し寂しくなる時間。
昨日は友だちと街のレストランで食事。
賑わいに紛れ込んだ。
街案内
友人伝いで日本出身の留学生と知り合い、私のいる街へ旅行するとのことで、街を案内して回った。
この街には何度も来ているけれど、いざ街案内となると、どこを見せるか迷う。
思いつくままに歩いたけれど、めぼしいところは大体見て回ることができて、いいコースだったのではと満足感がある。大広場、大聖堂、カフェ、公園、野外博物館など。相手が何を見て、感じたかの全てを知ることはできないけれど。
一緒に案内して回るなかで、私自身が行ったことや出会ったことのなかった新しい場所・モノ・人に出会うこともあった。生活する視点と、観光する視点とは違うもので、生活の場を後者の視点で見てみるのも楽しいし、発見がある。
ただ、自分自身も、この街をそんなに堂々と紹介する立場なのかと問われば、そうでもないという気もする。市民権を持っているわけでもなければ、スウェーデン語も流暢ではなく、滞在期間も住んでいる人たちに比べれば圧倒的に短いだろう。そう考えると、自分は当然この街の「外部者」であるようにも思う。道を行き交う知らない人たちの顔を見れば、そういう感覚も湧きあがる。
しかし同時に、その街で生まれ育ったからと言って、必ずしもつながりや知識が深いとは限らない。そういった場合は、出身地に対しても「外部者」と感じるような場合もあるだろう。
それでも、私はこの街に繰り返し来ていて、友人や思い出もあり、愛着もある。それに、別の街から来た人と一緒に過ごすことで、相対的に、この街とのつながりの強さを感じることができた。
スウェーデンの夏至祭・ミッドサマーフェスティバル
またスウェーデンに来ています。考えていることの整理や言葉の練習のつもりで、細々と記事を書いていきたいです。
6月下旬の週末に、友人の親族の出身の村で、夏至のお祭りと親戚の集まりに参加させてもらいました。
https://www.google.com/amp/s/sweden.se/culture-traditions/midsummer/amp/
広場に「マイストンmajstång(英語だとMay pole)」と呼ばれる棒を立てて、その周りでダンス。バイオリンの音楽と歌。伝統的な衣装を着ている人も。ダンスが終わったら、布の上に座ってフィーカ(お茶すること)。夜は親戚で夕食パーティー。
個人的で率直な感想としては、人の温かさを感じて、とても幸せな気持ちになった。「ここは天国か」と。
ただ、社会学・文化人類学を学んでいる立場からは、「そんなに単純か」ともう少し丁寧に考えたい気持ちもある。
書きたいテーマとしては、
- 私が感じた幸福感・人のつながりや温かさの背景
- 夏至祭や衣装などの「伝統文化」と呼ばれるもの
- 「知的障がい」のある(と見えた)方がお祭りに来ていたこと
- その他の気づき
が思い浮かんでいる。
映画「道草」の感想
映画「道草」を観てきました。
自閉症・重度知的障害のある人たちの「自立生活」についてのドキュメンタリー映画。
「自立生活」。暮らす場の選択肢が、入所施設や家族との同居、グループホームしかなかった人々がいる。かれらの一部が、介助者とともに、自分の部屋での生活を送ることを始めている。
私は、直接にかれらの暮らしと触れたことがない。映画を通して、少なくとも一部を見ることができた。多くの人に観てほしい、と思う。
「自立生活」をする(予定含む)4人が登場する。
リョースケさん。
食べたいものを食べること。歩くこと。ブランコをすること。スケートボードと一輪車。介助者との10年来の付き合い。
ユウイチローさん。
寝ること。自傷行為と他害行為。施設で受けた暴力から始まったということ。自分の気持ち、表現する方法、不安な気持ちに対処する方法。父親の想い。
外出することへのチャレンジ。街や公園を歩くこと。電車に乗ること。川を見ること。天候や状況の変化。
部屋の物を叩く激しい音。痛みがある。叩く本人の痛み、その音を聞く周囲の人びとの痛み、壁の痛み。
ヒロムさん。
動画を見る。散歩すること。公園で散歩中に大きな声を出すこと、出したい気持ち。それを聞く介助者と、通行人。介助者との会話。母親の想い。
カズヤさん。
津久井やまゆり園を退所して、これから自立生活。親の想い。人に食べ物をあげること。
それぞれの生活がある。
その他の断片的な感想。
大きなテーマはなんだろう。
映画を観た日は元々ボーっとした気分だった。見終わっても、頭はクリアではない。ドキュメンタリーは、そういうものかもしれない。現実は、本来混とんとしている。物語の形に切り出すことで、それがクリアになる。
自閉症/重度知的障害のある人たち。かれらが感じていること、考えていること、かれら自身のこと。かれらと介助者たちとの関係。かれらが生活すること。
最初に字幕で「自閉症・重度知的障害がある」という説明がある。「障害は社会的に作られるもので、個人が独立して持っているものではない」という考え方があり、私はそれに賛同している。「障害」という概念を用いている現実は確かにある。しかし、「障害がある」と最初から規定してしまうことは、ある意味で分かりやすくそれが必要な場面もあるけれど、「それでいいのかな?」と気になってしまう気持ちもある。制作者にもそういう気持ちはきっとあるだろうけれど、一応感想としては、書いておきたくなった。
ルールに囲まれている。してはいけないことがたくさんある。それは当たり前か。外で「たー!」と大きな声で叫ぶこと、壁を叩くことなどは、「してはいけないこと」だ。壁が、一面サンドバッグのようになっていればいいのに。大きな声を出されてびっくりすること。騒音に苦情を言うこと。私たちがルールを作っている。ルールを作り出すことを通じてかれらと私たちはつながっているかもしれない。
鳥や小さな生き物、木々や草花などがよく映されていた。個人的に散歩しながら鳥や街の風景を見ることが好きだ。公園にいる鳥を見つけた気分で少しワクワクした。また、私自身東京に住んでいることもあって、見覚えのある場所もあった。かれらと、私はすぐ近くで生活しているのだ。
映画の全編を通して、街の雑音などの音声が大きく聞こえた。車の音、ドアが閉まる音など。少し耳が痛く感じるくらい。リョースケさんは聴覚が過敏であるというが、このような感じなのであろうか。音が痛いと言う状態は辛い。
あと、この映画に登場する方たちが『ズレてる支援⁉︎』という本を出版している。映像ではなく、言葉で表現できることは、その本に多くのことが書いてある。映画を観た方は、こちらも読むといいかもしれません。
https://seikatsushoin.com/bk/145%20zureterusien.html
感想を一つの滑らかなストーリーにまとめることは難しい。
断片的だけれど、私が感じたこと、考えたこと。
高校の友人と久しぶりに会う~自己と自己認識の作られ方
高校の友だちと久しぶりに会って飲んできた。
なんだか、「一緒にいる人やその考えなどが、自分を認識するための比較対象になって、自分自身の自己とその認識が作られていくんだなぁ」ということを感じた、と帰宅後に頭の中を整理して思う。そういうことを感じる時間だった。
その人が私に向ける視線や態度によって、その人から見える「私」を垣間見る。その人の話・考えを聞くことで、それと比較した自分の考えが作られていく。
久しぶりに会う人に会うことで、久々に作られる「自己」があった。「あぁ、こういう私もあるのね」と。
色々な人が言葉にしているだろうけれど、具体的な文献はパッと思い浮かばない。
私の個人的な体験からの再認識。