映画「道草」の感想
映画「道草」を観てきました。
自閉症・重度知的障害のある人たちの「自立生活」についてのドキュメンタリー映画。
「自立生活」。暮らす場の選択肢が、入所施設や家族との同居、グループホームしかなかった人々がいる。かれらの一部が、介助者とともに、自分の部屋での生活を送ることを始めている。
私は、直接にかれらの暮らしと触れたことがない。映画を通して、少なくとも一部を見ることができた。多くの人に観てほしい、と思う。
「自立生活」をする(予定含む)4人が登場する。
リョースケさん。
食べたいものを食べること。歩くこと。ブランコをすること。スケートボードと一輪車。介助者との10年来の付き合い。
ユウイチローさん。
寝ること。自傷行為と他害行為。施設で受けた暴力から始まったということ。自分の気持ち、表現する方法、不安な気持ちに対処する方法。父親の想い。
外出することへのチャレンジ。街や公園を歩くこと。電車に乗ること。川を見ること。天候や状況の変化。
部屋の物を叩く激しい音。痛みがある。叩く本人の痛み、その音を聞く周囲の人びとの痛み、壁の痛み。
ヒロムさん。
動画を見る。散歩すること。公園で散歩中に大きな声を出すこと、出したい気持ち。それを聞く介助者と、通行人。介助者との会話。母親の想い。
カズヤさん。
津久井やまゆり園を退所して、これから自立生活。親の想い。人に食べ物をあげること。
それぞれの生活がある。
その他の断片的な感想。
大きなテーマはなんだろう。
映画を観た日は元々ボーっとした気分だった。見終わっても、頭はクリアではない。ドキュメンタリーは、そういうものかもしれない。現実は、本来混とんとしている。物語の形に切り出すことで、それがクリアになる。
自閉症/重度知的障害のある人たち。かれらが感じていること、考えていること、かれら自身のこと。かれらと介助者たちとの関係。かれらが生活すること。
最初に字幕で「自閉症・重度知的障害がある」という説明がある。「障害は社会的に作られるもので、個人が独立して持っているものではない」という考え方があり、私はそれに賛同している。「障害」という概念を用いている現実は確かにある。しかし、「障害がある」と最初から規定してしまうことは、ある意味で分かりやすくそれが必要な場面もあるけれど、「それでいいのかな?」と気になってしまう気持ちもある。制作者にもそういう気持ちはきっとあるだろうけれど、一応感想としては、書いておきたくなった。
ルールに囲まれている。してはいけないことがたくさんある。それは当たり前か。外で「たー!」と大きな声で叫ぶこと、壁を叩くことなどは、「してはいけないこと」だ。壁が、一面サンドバッグのようになっていればいいのに。大きな声を出されてびっくりすること。騒音に苦情を言うこと。私たちがルールを作っている。ルールを作り出すことを通じてかれらと私たちはつながっているかもしれない。
鳥や小さな生き物、木々や草花などがよく映されていた。個人的に散歩しながら鳥や街の風景を見ることが好きだ。公園にいる鳥を見つけた気分で少しワクワクした。また、私自身東京に住んでいることもあって、見覚えのある場所もあった。かれらと、私はすぐ近くで生活しているのだ。
映画の全編を通して、街の雑音などの音声が大きく聞こえた。車の音、ドアが閉まる音など。少し耳が痛く感じるくらい。リョースケさんは聴覚が過敏であるというが、このような感じなのであろうか。音が痛いと言う状態は辛い。
あと、この映画に登場する方たちが『ズレてる支援⁉︎』という本を出版している。映像ではなく、言葉で表現できることは、その本に多くのことが書いてある。映画を観た方は、こちらも読むといいかもしれません。
https://seikatsushoin.com/bk/145%20zureterusien.html
感想を一つの滑らかなストーリーにまとめることは難しい。
断片的だけれど、私が感じたこと、考えたこと。