消費と幸せ
ふと思い浮かんだ考えから。
クリストファーと暮らしていて、彼はあまり物を買わないのでは、と気づいた。部屋にある物は少ない。衣服、細めの本棚が一つにいくらかの本、パソコンとスピーカー。特に彼は物欲の少ない傾向があるかもしれない。
それに、彼は大学生で、生活は大学と部屋との往復がほとんど。街の中心地にもあまり行かないそうだ。中心地のレストランにも、ほとんど行かないと言う。また、その代わりに通販サービスで買い物を、というわけでもなさそうだ(スウェーデンにはAmazonは進出していない)。彼はそんなに物を買っていないと思う。
以前、日本からの留学生が「この街は、小さくて何もなくて、退屈だ」と言っているのを聞いたことがある。自分はそのような認識はなかったので、何を不足に感じるのかと不思議に思っていた。
スウェーデンとは関係ないが、地方都市出身の知人が、東京から出身地へのUターンは「買い物できる場所が出身の街には少ない」ために「東京での暮らしを続けたい」、と言っていた。これにも「地方はそんなに不足なのか」と不思議に思った。
かくいう私も東京で暮らし、物欲が少ない方だと自認はしているが、それでも小さい部屋は物に溢れ、Amazonをしばしば利用している。外食の利用頻度も高い。
しかし、クリストファーの生活を見るに、「買わない生活」がここにあることを感じるし、その背景には、「(相対的に)買わない生活」を前提とするようなこの街の環境(単純には商店や商品の少なさなど)があるだろう。そのような環境は、東京で「買う生活」をしている人々にとっては、退屈と感じて当たり前だなと、今ごろ腑に落ちた。しかし、そのような「環境」とは、ただ単に商店や商品の少なさ以外に何があるのだろう、という疑問は引き続き考えていきたい。
スウェーデンでも消費・経済の活性化は当然目指されているだろうし、物欲の大きい人も山ほどいるだろう(「途上国の物がなくても幸せな人々」とは大きく異なる)。より大きなストックホルムやヨーテボリなどの都市で生活してみれば、私もまた違う印象を得るだろう。印象を元にした浅い考察である(なので、「スウェーデンの人は物を買わない!」とは思わないでください)。
ただ、私は、東京で生活するなかで、「買う」ことが「多い」(肌感覚での何らかの基準以上という感覚)と感じ、それによる楽しさや便利さも享受しつつ、それによる犠牲へのぼんやりとした違和感も抱いて日々を過ごしている。
そんななかで、前提とされる「買う」量が相対的に少ないと思われるクリストファーの生活状況とその社会環境が、気になった。
消費が少なくて、幸せになれるのか、という問題はある。経済が縮小して、失業者が増えたり、財政が圧迫されて社会的なサービスも縮小・劣化していく、という致命的な心配もある。また、単純に欲しいものが得られないことで、幸せな気持ちでいることが難しい場合も当然あるだろう。ただ、「たくさん消費する」ことへの違和感も拭えない。
適切な量と質の消費によって、持続可能に幸せでいられる状態を目指したい。当たり前の目標。しかし、これが反映されていない現実も多い。この目標が反映されている現実を作っていきたい。
Sweden offers glimpse of a world without Amazon – POLITICO
がんばって全体に目を通した(読むのはあまり得意ではありません…。)。
ITジャイアントが進出することによって得られる便利さがあり、消費者は当たり前にそれを求めるが、
代償として「デジタル環境の多様性」が脅かされることを危惧する。どちらがよいのか、どちらが選択されていくのか。