自閉スペクトラム症の知人との話
渡航中の経験を振り返って書いてみる。
以前からの知人サラが、自閉スペクトラム症(Autistic Spectrum Disorder=ASDとここでは略して書く)の診断を昨年受けたとのことで、話を聞いてきた。
一言での感想として、内容を含めてこの話全体がとても興味深い経験だった。まだうまく言葉にできていない部分が多いが、少しずつ考え、消化していきたい。
以前からのつながりがあり、信頼関係があったからこそ話せたことでもあると思う。単純に今回もサラに会えてよかったという気持ちもある。
さて、興味深かったことは色々とある。自分がどのように面白く感じて、何をこれから考えていきたいのか、を中心に書いていこう(名前はもちろん仮名です)。
サラが働くオフィスで話を聞かせてもらった。スウェーデンにあるオフィス自体が、興味深い。建物には、様々な企業のオフィスが入っていたが、1階には卓球ができる部屋があり、ちょうど私が来たときにやっている人たちがいた。サラが働く会社のオフィスも、開放的な空間で、机や椅子の高さが様々だったこと、7、8席が一つのスペースにぐるりと円を作るようなかたちで配置されていたことが印象に残っている。あと、キッチンとソファのあるFika(お茶すること)のためのスペースもあった。「日本のオフィスにもFikaを広めたいね」などとサラと話をする。
個室に入って、お茶を飲みながら話し始めた。
私が文化人類学を学んでいることもあり、ASDについてのスウェーデンでの考えや習慣などの話には、興味が惹かれた。「アスペルガー症候群(ちなみに最新の米精神医学会の診断基準では用いられない診断名である)」を元にした造語がいくつかあること、診断名が当事者たちの人間関係において重要で意識されるとのこと、など。臨床医は、このような話をたくさん聞き取っているだろう。ただ、文化・社会的な側面から考察する価値もあるのではないか。どのような価値が生み出せるかをより具体的に考える必要はあるだろうが、引き続き研究をしていきたい。
サラは、きっとカウンセリングを繰り返し受けてきたのだろう。ASDについて詳しく理解していたし、自身の特徴を説明することが上手だった。「私は短く話をすることができないの」ということを最初に言われたが、このインタビュー自体がその言葉の通りのものになっていた。学校時代の経験について話を聞いているときに、私が時間も気になって「小学校高学年の話」をとばし、中学へと話を移そうとしたら、「待って、高学年の話をしていないよね」と静止された。
「短く話ができない」という思考・実践の方法。精神医学、脳科学、臨床心理学、社会学、そして当事者研究などなど、様々なアプローチによる説明が試みられているだろう。「ASDの特徴」として一般的に記述される内容と、サラ自身の実践との違い、あるいはスウェーデン社会のなかで一般化されうるような特徴。とても興味深い。ちなみに、いくつかの特徴は、私(←何者だろう)にもとても共感できる部分があったこと。
話に引き込まれつつ、疲れも感じ始めていた私。途中でサラが「少し休憩をしようか」と一呼吸入れる提案をしてくれた(どうしてそのような間が生まれたのだったろうか?)。そして、「休憩してからもう一度話を続ける?それとも別の日にまた会って話す?私はどちらでもいいけど」とも。私は、どうしようかと迷ったが、「また別の日で話すことにしよう」と決めた。何事も加減が難しい。体調を優先して、途中で話を止めるというのは、英断だと思った。
振り返って書いてみると、今回の話はインスピレーションの溢れる機会だったと改めて感じた。しかし、文章としてまとめることはまだ難しい。感想の断片的な記録として。
帰国
体がじんわりとだるい。脂汗が身体全体を覆っている。暑く、熱がこもっている感じ。帰って、シャワーを浴びよう。
1時間と10時間の航空便を乗り継いだ。スウェーデン時間午後1時頃に最初の便が出発して、日本時間午前10時に到着。もう新しい1日が始まっている。時差ボケ対策のため、出発前は長めに寝たり休むことを意識した。
スウェーデンには何度が行っているが、帰ってきたときの心境には微妙に差異があるような気がしている。
今回はスウェーデンを去ることに対して、漠とした寂しさがあった。
ただ、泊まっていた友人の部屋を出て、電車とバス、飛行機を乗り継いでいく過程では、慣れからくる落ち着きもあった。
そして、帰ってきてみると、今までになく違和感を覚えている。雪がなく茶色と薄緑色の地平、コメディアンが笑う奇妙な広告、目が充血し赤茶けた顔のサラリーマン、漬物のツンと鼻をつく匂い、人混み。たった3週間離れていただけで、そんなに違和感があるか。自分に酔っているのか。きっとすぐに慣れてしまうだろう。だからこそ、この違和感を大切にして、少し考えてみたい。
今回の滞在では、現地の人と会う時間が多かった。これまでは向こうに行っても一人で過ごす時間も長かった。現地の人と過ごし、状況に埋め込まれることでこそ、現地の「文化」がより身体に染み込むのだろう。少し分かるようになってきたスウェーデン語に囲まれて過ごす時間も長かった。あのリズムある響きが恋しい。
旅の後半はゆっくり一人で考えるような時間もあまりなく、生活リズムも一定して、状況に合わせて瞬発的・無意識に行動することが多かった。そのため、身体自身に馴染んだ感覚ができあがったのかもしれない。スウェーデンでの認識対象を明確に意識・思考できていたら、日本に帰ってきて違う認識対象が現れたときでも、差異を明確に思考できるようになり、身体的な違和感・驚きは強く抱かないかもしれない。
向こうで使い慣れていた赤と黄色のバスカードではなく、緑色のカードを改札に当てる。残高不足だ。
言葉、生活習慣。これまでより強い寂しさは、現地への馴染み方が強くなってきた徴でもあるということで。
見学が増えていくにつれて、記事を書く時間を作れていなかった。遡ってでも書いていこう。
障害のある若者のための自由活動所
障害者団体を訪問
消費と幸せ
ふと思い浮かんだ考えから。
クリストファーと暮らしていて、彼はあまり物を買わないのでは、と気づいた。部屋にある物は少ない。衣服、細めの本棚が一つにいくらかの本、パソコンとスピーカー。特に彼は物欲の少ない傾向があるかもしれない。
それに、彼は大学生で、生活は大学と部屋との往復がほとんど。街の中心地にもあまり行かないそうだ。中心地のレストランにも、ほとんど行かないと言う。また、その代わりに通販サービスで買い物を、というわけでもなさそうだ(スウェーデンにはAmazonは進出していない)。彼はそんなに物を買っていないと思う。
以前、日本からの留学生が「この街は、小さくて何もなくて、退屈だ」と言っているのを聞いたことがある。自分はそのような認識はなかったので、何を不足に感じるのかと不思議に思っていた。
スウェーデンとは関係ないが、地方都市出身の知人が、東京から出身地へのUターンは「買い物できる場所が出身の街には少ない」ために「東京での暮らしを続けたい」、と言っていた。これにも「地方はそんなに不足なのか」と不思議に思った。
かくいう私も東京で暮らし、物欲が少ない方だと自認はしているが、それでも小さい部屋は物に溢れ、Amazonをしばしば利用している。外食の利用頻度も高い。
しかし、クリストファーの生活を見るに、「買わない生活」がここにあることを感じるし、その背景には、「(相対的に)買わない生活」を前提とするようなこの街の環境(単純には商店や商品の少なさなど)があるだろう。そのような環境は、東京で「買う生活」をしている人々にとっては、退屈と感じて当たり前だなと、今ごろ腑に落ちた。しかし、そのような「環境」とは、ただ単に商店や商品の少なさ以外に何があるのだろう、という疑問は引き続き考えていきたい。
スウェーデンでも消費・経済の活性化は当然目指されているだろうし、物欲の大きい人も山ほどいるだろう(「途上国の物がなくても幸せな人々」とは大きく異なる)。より大きなストックホルムやヨーテボリなどの都市で生活してみれば、私もまた違う印象を得るだろう。印象を元にした浅い考察である(なので、「スウェーデンの人は物を買わない!」とは思わないでください)。
ただ、私は、東京で生活するなかで、「買う」ことが「多い」(肌感覚での何らかの基準以上という感覚)と感じ、それによる楽しさや便利さも享受しつつ、それによる犠牲へのぼんやりとした違和感も抱いて日々を過ごしている。
そんななかで、前提とされる「買う」量が相対的に少ないと思われるクリストファーの生活状況とその社会環境が、気になった。
消費が少なくて、幸せになれるのか、という問題はある。経済が縮小して、失業者が増えたり、財政が圧迫されて社会的なサービスも縮小・劣化していく、という致命的な心配もある。また、単純に欲しいものが得られないことで、幸せな気持ちでいることが難しい場合も当然あるだろう。ただ、「たくさん消費する」ことへの違和感も拭えない。
適切な量と質の消費によって、持続可能に幸せでいられる状態を目指したい。当たり前の目標。しかし、これが反映されていない現実も多い。この目標が反映されている現実を作っていきたい。
Sweden offers glimpse of a world without Amazon – POLITICO
がんばって全体に目を通した(読むのはあまり得意ではありません…。)。
ITジャイアントが進出することによって得られる便利さがあり、消費者は当たり前にそれを求めるが、
代償として「デジタル環境の多様性」が脅かされることを危惧する。どちらがよいのか、どちらが選択されていくのか。
タラとビーツのスープ
近くのスーパーでビーツ(Rödbeta)が1kgで5SEK(1SEK=12円ほどなので、60円)で売っていたので、迷わず買いました。
玉ねぎ、キャベツ、人参も同じ値段で売っていました。時々ある安売り。スウェーデンは物価が高いと言われることも多いのですが、食料品はこのように安価なものもあります。
今夜は肉ではなく魚料理が食べたいなと思っていたので、冷凍のタラを買って、ビーツと一緒に魚のスープにすることに。適当にレシピを調べて、あとは自己流で。特にスウェーデンに典型的な料理というわけではなく、スウェーデンで私が作った料理です。^^;
日本ではあまり見かけないビーツ。以前スウェーデンに来た時にも安売りしていて、何の野菜かもあまり分からずに買ってみると、クリストファーが「Rödbetaだよ。美味しいよ!」と言う。小さい頃にもよく食べたというので、こちらでは馴染みのある野菜のよう。そして、茹でただけのビーツを食べると、なんとも優しい甘み。また食べたいなと思ってました。
味だけでなく、色がすごい。切るとこんな感じです。
切ったあとのまな板が惨劇の後といった様相に…。
玉ねぎ、にんにくを炒めて、生姜、ビーツを入れて煮込む。柔らかくなるのにだいぶ時間がかかります。
それから、タラ、ブロッコリー、生クリームを入れてまた煮込んで出来上がり。
こんな感じになりました。
ビーツの優しい甘みがスープに滲み出ていて、美味しかったです。
南東部の街に到着
スウェーデン南東部の街に到着。街は雪に覆われている。
友人クリストファーと再会。笑顔でハグをすると、温かい気持ちになる。
クリストファーの部屋にしばらく泊まらせてもらう。
寒いだろうと恐れていたが、防寒具が十分だったのと、
風が吹いてなければそれほど寒さを感じないようで、安心した。
日はやや短く、7〜8時に明るくなってきて、16時〜17時に暗くなるくらい。
曇り空が続いて、視界全体が白く染まる。美しい、と思う。
雪の対策は行き届いているようで、
降雪のあった日には、除雪車をよく目にする。
部屋の前の道路には2日連続で9時ごろに除雪車が来ていた。
そして、防滑のためだろう細かい砂利のようなものが撒かれている。
雀などの小鳥は寒さに関わらず、元気に飛び回っている。
スウェーデンの冬の風景。